渦巻く知識

第七部

僕の岸辺には船が来る。毎日二、三隻の船が来る。昨日はなんと五隻も来た。
僕はかの漕ぎ手たちと握手を交わして、
「来てくれてありがとう」と伝える。彼らは決まって
「あなたが呼んでくれたのですよ」
と言う。
ある日、僕は今日も辿り着く船を待っていた。海原の向こうには船影も見えない。遠くに水平線が見える。空も海も紺碧色でその境目が朧げながらもくっきりと見える。船一つ浮いていない海は久しぶりかもしれない。
そう考えていると、背後に厳かな気配を感じた。さてはこの岸辺の裏側に船が来たかと、僕は身体を起こして後ろを見た。
するとそこに、白い翼を持った天使が空から降りてきた。
「ごきげんよう」
天使がささやく。僕は狼狽してしまって何も返せない。船ではない。天使が空から降りてきたのだ。
「あなたは今日も船が来るのを待っているのですね」
天使はそういった。その声は優しさと慈しみで満ちていた。僕の心が敬意で埋められていく。御伽噺でしか見たことのない天使が現実にいたのだ。純白の翼、金色の髪、優しげな目、しろたえの雪の如き衣を纏っている。装いは真に白く、その隙間から覗く肌は浅黒い。唇はほのかな紅色で歯を見せることなく微笑んでいる。
「天使様、あなたは何者ですか。なぜ僕のところへ来たんです?」
尋ねると天使はニッコリと笑って慈愛に満ち溢れた声で答えた。
「私は『信仰』です。あなたの心が私を呼んだのですよ。」
僕には『信仰』に心を染めた記憶がない。僕は確かに多くの本を読んではいたが、決して宗教の経典などには心を奪われなかった。僕はそれを歴史書の一つとして読んでいた。僕の心に何かしらへの信仰などあるはずもなかった。
「僕は何者をも信じていません。信じられないんです。僕は一人、自分の言葉を探し続けて生きています。あなたを呼ぶはずがありません」
そう言っている内に、とても恥ずかしい気持ちになって、僕は顔を伏せた。天使は微笑みを絶やさずに、僕を見つめていた。
「いいえ、貴方は確かに私を呼びました。それは誰かからの指示ではなくて、貴方自身の心の声によるものです。貴方はまだ自分が『信仰』を携えていることに気がついていません。けれどもそれは確かに『信仰』なのです。」
天使の言葉は慈しみに満ちており、まるで僕を包み込むような暖かさであった。身を任せてしまえば、もしかすると楽になるのかもしれない。けれども僕は全く信仰と言う立派なものを持ち合わせておらず、この岸辺に辿り着く船だけを見ていた。僕には『信仰』に身を捧げるような余裕はなかった。
「あなたは船には乗らないのですか。あなたが『信仰』ならば、それは言葉によってもたらされるものなのではないですか?経典や教義と言うものは言葉によって紡がれます。それは即ち『信仰』と言うものは言葉によって心に醸成されるものだからではないのですか?あなたの乗ってきた船はどこにあるのですか?」
私はこの天使がどこからきたのかを知りたかった。『信仰』は今確かに僕の下に来たのだけれども、僕にはこの『信仰』の出所が知りたかった。波は穏やかな海であった。この天使は本当に空に浮いていたのだ。真白き衣に身を包み、その浅黒き肌の中に光を携えているかのような目がある。けれどもその中心は全てを飲み込もうと目論んでいるような射干玉の如き漆黒であった。今までの漕ぎ手たちはみな人であったがこの天使は紛れもなく天使であった。
「私に船はありません。良いですか、真の『信仰』とは言葉では表現できません。できぬからこその『信仰』なのです。私は船で流離うことはありません。私はただ私を呼ぶものの下へ降りてくるのです。今は貴方の下へ降りて来たのです。私は船を持ちません。持たぬからこその『信仰』なのです。」
天使は半眼で慈愛に満ちた表情をしていた。天使の話を聞くに、僕が何かしらの『信仰』を持ったということなのだろう。僕が持ったその『信仰』は言葉にすることができないものであるから、天使は船ではなくて自らの翼で僕の下に降りてきたのだと言う。雲一つない空である。
僕の手にした『信仰』とはなんだ?僕は何かを信じたであろうか。何かを崇めたであろうか。僕にはそれが見当もつかなかった。僕が携えていたのは夥しい憂鬱と、嵐のような焦燥である。そこには『恐怖』と『不安』とそれでいて尚も夢想するものへの憧れであった。そこには『信仰』はなかった。僕の下には常に現実からの逃避だけが横たわっていた。僕はただ怯えているだけであった。
かつて僕の岸辺にたどり着いた、古く大きい船の漕ぎ手が言っていた言葉を思い出した。
『神を信じるのは心であって理性ではない。信仰とはこのようなものなのである』(パスカル『パンセ』断章278)
僕のもつ信仰とは何なのであろうか。この怯懦には何ら心を任せる『信仰』などは見当たらない。僕はすぐにでも逃げ出したかった。『信仰』は今の僕にはあまりにも荷が勝ちすぎるものである。僕の言葉には何もない。何にも属することが出来ず、何者にも成ることができぬ現実だけがここには横たわっている。それをこの天使は『信仰』と呼ぶのか。ならば僕はこの『信仰』に身を寄せるわけには行かなかった。それでいくらか心が軽くなろうとも、不安が拭われようとも、僕の言葉を僕はまだ知らない。
「さあ貴方は貴方の信仰を持って行かねばなりません。船を出しなさい。この岸辺から遂に離れる時が来たのです。」
天使はそう言うと、遙か向こうの水平線を指さした。そこに向かって僕は漕ぎ出さなくてはならない。しかし僕には船がない。僕の、僕自身の言葉がなかった。僕はまだ詩人ではなかったし、作家でもなかった。詩も歌も小説も、僕の手によっては紡がれていなかった。言葉は確かに僕の頭の中に渦巻いていたのだけれど、それはまだ船の形をしてなどいなかった。僕には船は出せなかった。まだ出すわけにはいかなかった。
「船がありません。僕には僕の船がありません。だから僕はまだ船出をすることができません。あの海の向こうの、辿り着くべき岸辺は僕には見えません。」
僕が弱々しくそう言うと、天使は驚いた様子であった。
「あるではないですか。あなたの船が。あなたには船があるではないですか」
僕の心は恥辱と疑念に支配された。船はない。この岸辺には、船は来るけれども僕の船はなかった。
必要なのは言葉であった。僕の、僕だけの言葉。その言葉が生まれた時に、きっと僕は僕の船を拵える。この果てのない荒波と潮風の渦巻くこの大海原へ漕ぎ出すための船ができる。けれども今の僕にはまだそれがなかった。言葉はこの岸辺に訪れる多くの船を作り上げていたけれど、僕の、僕だけの船はここにはなかった。
「ありません。僕には船がありません。それを作るための言葉を、僕は持っていないのです」
僕はあまりの恥ずかしさに顔を伏せた。泣いてしまいたかった。僕には僕の言葉がなかった。あるのは怯懦と焦燥と、それらを覆う憂鬱であった。
「ああ、あなたはまだ知らないのですね。あなたの心に降りてきた『信仰』を、そしてあなたの船を形成する言葉を。」
天使は嘆きの表情を見せて、やがて陽炎の様に消えていった。『信仰』とは何なのだろう。僕には言葉もなく、今『信仰』すらも去っていってしまった。僕は空虚な心を嘆いて、空を眺めた。空は海原の青を映している。